キャパンのネゴト

うまく働けない欠陥労働者が日々考えることと目指すもの

いつまでも被害者じゃいられない

例えば、という便利な出だしで、あえて例えば、職場がこうだったとしよう。

労働環境としては新雪の如く限りなく真っ白に近いホワイトである。

ただ仕事の内容とか、仕方とか、雰囲気とか、そういうのがなんか合わなくて、イヤではないけれど、到底好きにはなれない。そんなところ。

 

「好き」の言語化は、それが好きであればあるほど難しいが(説明できる好きは、好きのための好きであることが多い)、「好きではない」の言い訳は次から次へと喋れるものだ。

閉じている、ムダが多い、慣習が強くて非合理的、育成がヘタクソ、オナニーが横行している、数字感覚がない、冷たい・・・

 

そんな状況があったとして、そこに新しく入ったひとたちのことを考える。

反応は、①何も思わない②違和感を感じるが順応する③反発を覚える と、程度の差こそあれ、大まかに3つに分かれるだろう。

被害者意識も順に①➡️③と高くなる。そして③のひとにとっては、①も②も加害者の仲間入りだ。

 

物理的なものか精神的なものかはたまた妄想かはさておき、被害者であるひとたちにとってはその環境は苦である。周囲にわかり合えるひとがいなければ、さらに孤独は募る。ひどい話し。

 

これは被害者対加害者の構図になり、話しは単純。

 

しかし難しいのは、被害者が被害者のままではいられないということ。

ひとはやられっぱなしでは生きていけない。働かずには生きていけないのと同じだ。そんな簡単にはできていない。

だからやり返す。自然に、無意識のうちに、あまりにもあっさりと。

 

入った頃の反発も、気付けば弱くなり、なくなった分の感覚は、場に溶け込んでしまっている。一言で言えば、染まっている。

 

 

加害者とは相対的な言葉であって、誰かが苦しんだ場合の、その相手になる。

しかもそれが意識的なら卑怯だけど、無意識ならなおのこと救いようがなく、そんなものにはできるだけなりたくない。

 

だけどさらに気を付けなければいけないのは、いつのまにか加害者になっていることだ。

かわいそうな被害者のつもりが、変革を起こす者であるつもりが、足下を見れば半身が既に蝕まれて変色しているかもしれない。

 

 

 被害者面した加害者になることに、警戒心を。