キャパンのネゴト

うまく働けない欠陥労働者が日々考えることと目指すもの

「ちゃんと書く」ことについて

「ちゃんとブログを書こう」と思ったんだけど、「ちゃんとブログを書こう」と思えば思うほど何も出てこなくなる。「ちゃんと書く」とは推敲という意味だけではなくてその目的とか話題とかも含まれるから、その枠組みが面倒臭いとなってしまうのか。いや、それだけではなくて、そもそもおれの中に「ちゃんと書きたい」ことそのものが存在しないのかもしれない。次から次へと出てくる思いとか頭の中で繰り広げられる終わりのない議論とか、そういうのは大抵、実名で意見表明するには下衆だったり猟奇的であったりするし、したり顔でのべるには陳腐化された一般論であったりするのだ。

 

例えばおれが会社を辞めたかった理由を本音で書いてしまえば、人物や物への相当に侮辱的な言葉が並ぶだろう。それを本気で信じて書けばまだイタイやつで済むけれど、それ自体を今さら客観的に表現するのは精神的にもキツい。かといって、当たり障りない言葉で抽象的に言うのなら意味がない。結局どっちつかずで面倒臭くなってしまう。それにそんな気持ちでいるならそんなことやる意味がない。はて、なんのためになにを書こうとしてたのだろう。そうに自嘲して終わる。

 

それでも時折「ちゃんと書こう」と思うのは、どうにか世の中に自分を表現したいからなのだ。俳優・ダンサー・写真家・詩人・工事現場の人・メーカー・・・なんでもいいのだけどなにかしらを世の中に出して示していることは格好いい。生活の大半を占めている仕事の時間でそれができたら幸せなのかもしれないけど、今はそれができていない。だから何か形にしたい、と願う時に、おれは書くことを思い浮かべる。ライターやブロガーと呼ばれる職業もある。もちろん作家もコラムニストもエッセイストも記者も。収入には届かなくても美しかったり面白かったりわかりやすかったりする読み物を作る人もたくさんいる。おれもそんな風に「ちゃんと書く」ことで我ここにあり!と叫びたい気持ちになるのだ。

 

それでもできないのは、結局「誰かのために」書けないからだろう。世に書き物を出すからには読み手がいるわけだけど、その読み手のために試行錯誤するほどには、またその方向性には関心がない。これに限らず、自分でも呆れるほどに、徹頭徹尾に自分本位である。加えて天邪鬼とも思う。旅行を売る仕事をしていても、他人の旅行にはてんで興味がない。旅行が好きなのは「自分がする旅行」が好きなのであって、書くことが好きなのは「自分のために書く」のが好きであるだけなのだ。よく「好きなことは仕事にするな」と言うが、あれは、「飽きるから」とか「負の面も見るから」とかいった経過でわかる理由ではなくて、「そもそもそれを好きなのはお前が自分でやるのが好きだから」という根本的な理由の方が大きいのではないか。

 

ただ、まあそれでいい。と、ここのところはようやく自分を肯定できるようになってきた。なんでもいいか、所詮は自分である。一体、今までなにを勘違いしてなにを目指してきたのか。諦めというより開き直り。本当は今回だって、題名は「aさんbさん」で、自分の感情の振り幅に折り合いをつける方法にやっと気が付いた話をしようと思っていたんだけど、書き始めれば止まらない。でもそれでいい。それでいいとか言いながら、それでも期待してしまう自分もいるわけだけど。「ちゃんと書こう」ってのは「ちゃんと書けば」もっといいものが書ける、もっとたくさんの人に読んでもらえると、「おれならもっとやれる」精神が見え隠れするし。だから、そういう自分の中の振れ幅とどう付き合っていくか、をまた書きたい。

 

一旦、「ちゃんとは書けない」けどそれでもいいじゃん。という結論にて。