飽きるまで、遊びをせんとや生まれけむ!
前回の記事では、ついになんの本を読んだのか書き損じた。
それに、締めもちょい微妙だった。
大事なワードを入れ直したので、よければご一読くださいませ。
さて、この本には梁塵秘抄の言葉の他にもいいこと書いてありました。
飽きるとは、飽きるほど没頭した証である。やり尽くしたという達成感が、飽きという感情を呼び起こすのだ。
基本、貧乏性な考え方をするから、「飽き」がコワい。
楽しかったことがそうでなくなること、
乗ってきた波が終わること、それはおれにとっては恐怖である。
いま持っているもの(楽しい気持ち)がなくなるのを恐れるから、
本気で楽しみ尽くせない。だからやり尽くすことがほとんどない。
飽きるほどやることは、言うほど簡単ではない。
同じものを見ても、その人がどんなバックグラウンドを持っているか、何に関心があるかで、目に入ってくるものが異なるのである。
これはつまり、関心事が多い人ほど、同じものを見ても得られるインプットが多いということだ。
遊びにいったとき、観光をしているとき、どれだけ仕事の目線で物事を見れているかな。
もしあまりみれていなかったら、いよいよ仕事に関心がないということか・・・
その他の目線で、どうしてもしてしまう見方はないか。
もしあるなら、それは自分の関心の矛先を見付ける機会になる・・・
日常に潜むそれを遊びと認識するには、何らかの名称が必要だ。(中略)
名前をつけることは、見落としがちだが案外と大事な事である。
これはウロコ的な箇所。言われてみれば。
特に意識した事もないことでも習慣的にやっていることがある。
例えば蛇道のように曲がった道を、それに沿って歩かずにできるだけ真っすぐ歩こうとすること。
これも遊びにできるということか・・?
「道に騙されずに目的地まで真っすぐ歩くゲーム」楽しくなりそう・・?
多くの人がする遊びをする場合は、縛りを設けると趣が生まれる。
あちこち旅行をするのが好きならば、訪れた先の市長村役場の写真は必ず撮るとか、郵便ポストを見つけたら必ず撮るなどといったルールを設けてもいいだろう。
縛りを加えたり視点を変えれば、いまやっていることも「誰もやっていないこと」になる。
好きな事で、しかもその「誰もやっていないこと」を遊び続ければ、
おもしろい話しという産物と、もしかしたら棚ぼたな成功があるかもしれない。とのこと。
それはそれでがんばってみたい。
がんばってみたい?
大人とは、遊びですらここまで考えて、自らに「いま遊んでるよ!!」と言い聞かせなければならないのか。
とほほなこと。
せめて、「遊んでいる」と気が付かない「遊び」くらいは、
飽きるほどやって、やり尽くして飽きて、そこで気が付きたいものです。