素晴らしきオナニーを。
大学2年生のときに初めて、主にギターで弾き語りをする系のアーティストのライブに行った。
それはもう、感動した。ギター一本で人の心を動かし、ギター一本で会場を一つにする。素晴らしい。
しかし徐々に冷静さを取り戻してからは、感動の中にも若干の違和感を感じていた。
おれは、ここに、感動をしにきたのだ。考えことをしにきたわけではない。
気付かないふりをしても頭を占領していく違和感。
おれは、ここに、高尚な芸術を観にきたのだ。下世話なものを観にきたわけではない。
違和感の正体に辿り着いてしまう。
オナニーだ。
ギターを弾く手の位置、気持ち良さそうな顔、大きな声(?)、、、
オナニーに見えてしまったのだ。いやもう、そうにしか見えなくなってしまったのだ。
ギターが好きなひとには失礼な感想になるかもしれない。
だけど、きっと、間違えてはいない、とおもう。
手の位置云々は置いておいて、気持ち良さそうに見えた顔は、本当に気持ちよかったのだろう。1万人の前で歌を唄い、1万人を感動させるなんて、気持ち良くないはずがないのだから。
感動させよう!!とおもって唄う一流アーティストはきっといない。
自分が気持ち良く唄うと周りが感動するから一流のアーティストなのだろう。
そして自分が気持ち良くなるためにやるのならば、それはオナニーで間違いない。
そんなことを思えば、周りはオナニー野郎ばっかりかもしれない。
管理職になって会社側に立ち、経費をケチりながらおれは会社の利益を考えてるぜ、なんて態度でいるのも、特権を味わいたいただのオナニーだし、
課長になってまとめる立場になり、自分のサクセスストーリーを押し付けながら社員の成長を考えてるぜ、なんて施策も、優越感を味わいたいただのオナニーだ。
ジジイのような社会人2年目が新入社員に仕事を教える姿も、一見微笑ましいが、内実は「どう?おれ教えるのうまいでしょ??本質突いてるからね。」なんて傲慢さが渦巻く立派なオナニーである。
自分の意見を吐き出すTwitterやここぞとばかりにキレイな写真や友だちとのバカ騒ぎの記録を載せるインスタグラムなどは、もはや何の建前もない正真正銘の公開オナニーだし、
ブログなんてものは、ねえ!!みてみて!みてよー!!!と泣き喚きながらオナニーをしているようなものである。
ひどい。
そこら中で誰もがなりふり構わずきったないオナニーをしている世の中。
ひどすぎる世の中。
それでもそれを受け入れなければならない。
なぜなら自分もやっているのだから。
救いはある。
求められるオナニーをすることだ。
それはもはやオナニーではない。その次の段階にいっている。
オシャレなカフェだって、ディズニーの映画だって、MacBookだってそこのいい人だって、
みんなもとは一人でオナニーするところから始まっているんだ。
「この空間どう?!かっこいいっしょ!」「こんな話し最高じゃない?みんな感動するかしら」「おれっていい人?この優しさ、伝わってる?」
そんな自分本位で自己満足な行為でも、求める人がいれば評価はガラリと変わるということ。
ギターリストがオナニーしているように観えたのは、おれがまだその世界に入り込めていなかったから。
夢中な状態にして感動をさせたら、それはもうオナニーではなくなる。
どうせオナニーをして生きていくのなら、そんな、人を盲目にするような素晴らしきオナニーをしたいし、みたいものだ。