自己主張と多少の迎合

安寧を貪るジジイ的社会人2年目の、前を向くための日報

つまらないなら帰りたい

いつからだろう。

「お前は付き合いが悪い」と言われるようになったのは、

 

 

小学生の頃は、仲の良い人たちと比べて自分だけ地区が違った。毎日、自転車に乗って遊びに行っていた。

中高生の頃は、部活の仲間内で自分だけ自転車通学だった。たまに、電車で一緒に帰って高崎駅で遊んだ。

大学生の頃は、7割以上が大学周辺で一人暮らしをする中で、実家から車で通った。お酒を呑めなければ家に招くこともできなくて、日常の中で遊ぶのはほぼ皆無になった。

社会人になった今は、社員寮に入らず、同期とは東京の北南で隔てられて一人で住んでいる。新宿も寮も遠くて、生きていることをお知らせに行く以外では呑み会にも行かない。

 

 

どれも些細な物理的条件の違いである。

転校生でもなければ、遠いところから通ったわけでもない。

 

だけど積み重なった周り(仲の良かった人たち)との些細な差異は、いま確実に大きな歪みとして発現している。

 

 

知ってしまったのだ。

一人の楽しさを、群れない美学を、「人と違う」がもたらす特別な視線を、秘密の蜜を。

 

知ってしまったのだ。

集団の圧を、群れるダサさを、「人と同じ」がもたらす冷めた目線を、共有の重さを。

 

 

 

社会人になって少しは大人になって付き合いを知って、それでちょっとはマシになった。

気が合う人とだけいればいいなんて狭量なことは思わない。大切にしてくれる人を大切にできないやつはクズだし、たった一度の人生、いろんなひとと話したり時間を過ごすことは有意義だ。

 

 

ただ、どうしても思う、一つだけ許してほしいことがある。

つまらなかった場合や、よりおもしろいことがある場合に、離脱する自由を認めてほしいのだ。

 

我慢していると発熱する。その場にいられなくなって逃げ出したくなる。そして帰る。

当たり前にしてしまうけど評判は良くない。

 

ひねくれたせいなのかどうなのか、不適合者のような見た目だけど、でもごく自然な感情なのだ。

 

つまらないなら離脱する。

世の中がもっと寛容で流動的になればいいのにな。

 

 

 

わたしの世界は自然と狂気と合理。

そこに合わない世界観での同調圧力に耐えれないくらいにはやっぱり、付き合いが悪いのも認める。

 

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