「いいひと」がいなくなれば世の中は平和になる③
昨日の続き
さて、「いいひと」でなくなることの難関は、詰められることだけではない。
誰にも期待されないんだから、それは正直、寂しい。
徐々に用件を頼まれなくなったりお誘いがなくなったりしていくだろう。
「いいひと」を辞めよう。期待を裏切ろう。なんて言ってもそう簡単に希薄に向かえる関係ばかりでないかもしれない。
でもその寂しさは必要な感情だろうか。
現在の、「いいひと」同士で繋がり合うこの社会はムダな関係だらけだ。
お互いに期待として行動を強いられ、強いる関係を作るから、余計な関心ばかりが生まれる。
友だち同士の噂話もそう、カフェでの痴話話もそう、居酒屋での愚痴もそう。
AKBの結婚もそう、芸能人の淫乱事件もそう、国会議員の失言もそう。
本当はどうでもいいことばかりなのだ。
それなのに自分の期待を次々に押し付けていく。そうやっていらぬ関係を増やしていく。
それがなくなることは、寂しいのだろうか。
「愛の反対は無関心」とするなら、この世の中は厄介な愛に溢れすぎている。
一方的な愛は時にひとを傷付けるが、
無関心は争いを起こさない。
期待を裏切って「いいひと」を辞めれば、ひとに期待を押し付ける暇つぶし程度の関心を辞めれば、期待されることもなく期待することもない関係が増えれば、無関心なゾーンが広がれば、平和になるだろう。本当は、心底、どうでもいいことだらけと認め合うだろう。
これは「つまらない」ことではない。
「いいひと」を辞めてあらゆる関係が希薄になれば、それでも濃く残るものに否が応でも気が付く。
そこには「このひとの期待に応えたい」「このひとに期待されたい」「このひとには期待する」が出現する。
広すぎた関係に残った純度の高い双方向の期待。
それに応えることが楽しさであり、そこでこそいいひとになれれば、それでいいと思う。