いつ死んだって、構わないことになる
「愛」は生きるための必要条件である。
だから、「愛」はどうだこうだと、その説明に高尚な装飾はいらない。
「愛」は生きるための必要条件でのみある。
だから、「愛」が地球を現状維持はさせても、救うことはない。
裏を返せば、「愛」がなければひとは死ぬ。
ただちに死ぬわけではないが。それでもじっくり、確実に死に近づけていく。
「愛」がないとは、すなわち孤独である。
孤独を感じるとき、ひとはほぼ死んでいる。
なぜなら、その時間は世界で誰もその人間のことを気にしていないからだ。
誰にも気にされないひとは、その時間に生きていようと生きていまいと、世の中の流れに一切の関係を持たない。
例えば、小学校の同級生のイマは気にするか。例えば、もっと身近なひとであっても、そのひとのイマを気にするか。イマ生きているのか死んでいるのか、知っているのか。知らないなら、生きている確証が持てないなら、ましてや全世界がその態度なら、それはほぼ死んでいるのではないのか。
結局、そのひとは世界からしたら、いつ死んだって、構わないことになる。
いつ死んだって誰も(もしかしたら自分自身すらも)構わない状況なんて、ほぼ死んでいる状態なんて、堪え難いことには想像がつく。
だから「愛」という、そんな病状に効く唯一の薬の入手が必定になる。
その薬は、孤独という奥の見えない深い深い井戸の暗闇に忘れ去られた、胸の張り裂きに苦しむひとが意識的に求めるだけではなく、そんな井戸に入らないように日々必死に努めるひとさえも、無意識のうちに求めて、対象が重なればある時は長蛇の列を作って辛抱強く待ち、ある時は暴力に訴えて力づくで手に入れる。
厄介なのは、この薬の形態は決まっていないことだ。
大量のネコを飼うおばあちゃんも、ゴミを捨てれずに溜め込むおじいちゃんも、不倫をする芸能人も、電車で暴れる中高年も、ちょっと変わった宗教に心酔する主婦も、駅でたむろする少年も、もちろん恋をするひともメンヘラもビッチもマザコンも。
たったひとりになって、自分が肉片に過ぎない、気を抜けば土に還るだけの無意味な存在であると認めたくなくて、それを救ってくれるものに愛を見出してすがる。
そうであるならば、その行為がいくら醜かろうとも、誰が何をしようとも、一体、どうして責められようか。
電車で騒がれたら困るし、浮気をされたら悔しいし、メンヘラはウザいし、無差別殺人で身近なひとが殺されたらきっと復讐するだろうけど、彼らはただ死にたくなくてやっているだけなら、それは私たちが日々行っていることと何が違うのだろう。
わざわざ結婚なんていう不自然な制度を作ったのは、男女一対で過ごすことがより無害な愛の形であるから、というだけだ。
それでもなお、ほぼ死んでいるひとは一体どれほどいるのだろう。
誰にも気にされることなくひっそりと、しかし確実に手に取るようにはっきりと孤独を持つひとはどれほどいるのだろう。
いま、死んだって構わないひとはどれほどいるのだろうか。
今週のお題「ちょっとコワい話」