花火を観て、どう感じるのか
今年はたまたま、3つの花火を観ることができた。
これまではわざわざ、花火大会に足を運んで観ていたのだから、都会の集積を思い知らされる。少し足を伸ばせば、どこでもやっているようだ。
花火で儚さを感じるのも、その水平性というのか普遍性というのか、同じ時期に割りにどこでも観れるからこそだと思う。
その花火が偶然であればあるほど、同じ人と同じ場所でもう一度観ることは叶うに難い。一年経てば、一年歳をとる。
それでも花火として暗闇に映える一瞬の光は、来年も別の場所でも観れる。同じ場所で同じ日程できっと来年も行われるだろうし、違う場所で同じ人と別の花火を観ることはできるかもしれない。その内容も対して違いはない。
でも、それは去年のものとは違う。
花火は本来は闇であるものに一瞬の光を与える。それは見物者に目に観える現象と目には視えない本質の乖離という儚さを抱かせる。
そしてこの儚さは、悲壮と時の移ろいを伝える。
なんて言って、周囲を見渡せば、おしゃべりに興じるひと、子供の世話に追われるひと、酒をひたすら呑むひと、動画を取り続けるひと…実際に夜空をじっとり眺めて感慨に耽るひとなんて、今更そんなに多くはない。
去年も同じ状況で観て来年も同じ状況で観れると信じ、実際にそうになる可能性の高い人は多い。
そのひとたちにとっては、数あるうちの一つのイベントでしかない。
そんな風に時の移ろいをなくすのは、儚さで悲しむのと、どちらがましなのだろうか。