キャパンのネゴト

うまく働けない欠陥労働者が日々考えることと目指すもの

「サザエさん症候群」を回避して月曜日の仕事を迎える方法について

休みの日のなにが好きか。朝、目覚まし時計をかけなくてもいいことと、朝、目が覚めてももう一度眠れることかと思うけどどうだろう。

そんな9日間の日々も本日をもって終わる。

スターバックスコーヒーで、流れる音楽に合わせて机を叩き、音楽の抑揚に身を任せるんだよとか言い合うウザめのカップルのいる田舎ともおさらばだ。

 

geigo-capan.hatenablog.com

 

2回目のこのお休みは一切、どこにも出かけなかった。そうやって堪能した。それでも休み明けの仕事を目前に控えたいま、「サザエさん症候群」とか「夏休みロス」みたいな、休みが終わることへの焦燥感や喪失感のようなものは特に感じない。

 

もともと土日の休み明けはすんなりと月曜日を迎えられていたが、「一応長期」休みでもその感覚がないので、それについて考えてみた。

*仕事が好きなわけでも、「実は心の奥では楽しみにしている」わけでもない。仕事に関しては、ただ、「無」。どうでもいい。(大問題)

 

 

答えは1つだった。

飽きることだ。

休みに飽ればいい。

 

遊ぶのに飽きる、旅行に飽きる、ゴロゴロに飽きる、「仕事をしないこと」とか「生産しないこと」に飽きる。そんな風に飽きていけば、まあ気分転換に仕事すっか、となる。

 

だから、飽きるほどに休めばいいのだ。

休んだはずなのに休みが恋しくなったり、挙げ句の果てには休んでいる最中に休みが恋しくなるのは、ただ、その休みを休みとして休みきれていないから。それはきっと、休みを、仕事をするための「休息」としか捉えていないか、あるいは、別に休みの日に特段、やりたいことがないかのどちらかのような気がする。要するに、そもそもが「平日の仕事ありき」なのだと思う。

飽きるほど休むとは、思いっきり遊ぶとか死ぬほど眠るとかいうのとも違うのだろう。

そこに介在されるべきものは納得感だ。

 

 

仕事は人生そのものかのようにも語られるけど、特に会社員のような、与えられた環境で仕事をする場合は、それはそうとは言い切れない。あまりにも制限がある。

どちらかと言えば、休みこそ人生じゃないかと思う。空間的、時間的制約のより少ない休日にどうに過ごすか。それは人生をどう生きるかに直結している。納得感を持つためには、その休みに対してざっくりした計画を持ち、そこにちょっとしたサプライズが加わればいい。そんな休日を送れば、満足して飽きるだろう。

 

 

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わたしのゴロゴロに合わせてゴロゴロするネコ。

一日中こんなことしてたら、そりゃあ飽きる。