恋愛とは!その不都合な真実
地震やミサイル、例えばプラットホームに立っていて後ろから押されるのも想定済みなほどシリアスで悲観主義だから、私は恋愛もうまくできない。
それでも恋愛をしようと思って、その不思議な状態はどうやったら生まれるのかと、女子に会いにせっせとマンションに出入りする男子とか、「ひよっこ」の女子とかをみながら考えていた。
わかったことは、恋愛は恋か、寂しさかのどちらかがあってはじめて起こるものということだ。
それぞれの正体について
恋は「好き」で、
寂しさは「安心感を求める状態」である。
恋は直感で寂しさは思考的とも言える。
この2つは全くの別物で、両立し得ても並立はない。
たぶんどちらかの要素が強くなる。
だからまず、どっちの恋愛か問題がある。
恋愛がおもしろいのはほぼ確実に終わりがくることで、
また終わりがくるとわかっているのに、それを信じたがられないことだ。
恋愛はなぜ終わるのだろう。
「好き」は期待から生じるから、失望によって失敗する。
「安心」は依存から生じるから、一方の怠慢もしくはもう一方の飽きによって失敗する。
たしかに、失望しないことも怠慢にならないことも飽きないことも、難しい。
私はどちらの恋愛のタイプをするべきなのだろう。
この2つの形態のうち、社会人になるとだいたいは恋(「好き」だから)ではなく、寂しさゆえに起こっていると思える。
なぜか。
生きていくためには、まず、安心感を満たす必要があるからだろう。
寂しくて安心を求めるのは、生活の上で必要で自然な感情だ。
例えば実家にいて安心感に満たされている場合は、恋愛で「好き」を求められる。中高生とかは、だから、恋ができる。
でも独り立ちしたときには、何よりもまず、「このひとならそばにいてくれる」「話しを聞いてくれる」「自分を理解してくれる」とかの安定性を求めるだろう。
結婚とはそれを契約履行によってさらに強固にしたもので、だからこそ、よく「結婚と恋愛は違う」(正確には安心感を求めるのと好きを求めるのは違う)と言われるし、だからこそ、安心感を求めている人と好きを求める人同士では合わない。
恋をしたい人は恋をしたい人を
安心したい人は安心したい人を選ばないと大変なことになる。
逆に、恋人を作りたいのなら、相手がどちらを求めているのか認識して、差し出せばいい。
ただ、そうであるならば、安心とは一体なんなのか。
恋は「このひと!!」に対して、こちらは、特定のモノ・ヒト・コトを指さないのではないか。
寂しいときにそばにあるモノ(だからペットも含まれる?)とかご飯を食べるときにそばにいてくれるひととか、そういうことにならないだろうか。
要は、根本的には、相手はほぼ誰でもいいのではないか。
恋愛をしようとしたとき、年齢的にもこれからの相手は安心感を求める傾向が強くなるだろう。
それは自分とて例外ではない。寂しさを解消して、生活の安定を図る必要がある。
しかしそのときは、(お互い様ではあるが、)求められるのは絶対としての自分ではなく、求めるのは絶対としての相手ではない。
それは、やはり恋愛のやる気をなくす。