『限りなく透明に近いブルー』を読む / 過去はどうあっても狂おしくて愛おしい、だから「いま」はなにをやってもいい
読んだそばから書いていかないとたまってしまう。
サザンの会報も未開封。
書いたっけな。
職場の近くにTSUTAYA兼スタバがあって、1階が新品の本売り場とスタバの正規の席、2階が中古の本売り場とタダで座れる席。
週に1度はキレイなイスで新しい本を持ってきて読むのだけど、4回はもちろん上の席。
お昼ご飯はコンビニのおにぎりをデスクで済ませて、お昼休憩はガッツリそこで本の世界に入る。最高だ。
中古の本はとにかく安い。だからちょっとでもおもしろいと買ってしまう。この点は困りもの。
週でトータルしてみたら、お昼ご飯よりも費やしているお金は大きい。
そんな風にして出会って、初めの何ページですっかり惹かれたのがこの本だ。
タイトルならだいたい誰でも聞いたことがある。
村上龍のデビュー作。これまた著者も聞いたことがある。
芥川賞受賞作品。すごい。
けど中身はとんと知らなかった。
まさか、ヤクに乱交、暴力に自傷、ゲロに汚物しか出てこない小説だなんてね。
おまけにそれが技術的に詩的で文学的な書かれ方してるんだから参る。
片手で読めるほど薄い本なのに永遠に終わらないんじゃないかと怖くなるほどに深いのだ。
つくづく感じたのは、影響の受けやすさ。こと本となると極端に弱くなる。
村上春樹の本に毒されて孤独を愛し、高城剛に刺激を受けて行動するようになり、井上ひさしに学んで、養老孟司に説得されて名前を変え、そして村上龍の世界に入って再び落ちる。
レイ子が苦しそうに呻いて体を反転させ口の端からドロリとした固まりを吐く。ケイが慌てて駆け寄り、新聞紙を敷き口をタオルで拭って背中を擦ってやった。汚物には米粒がたくさん混じって、夕方一緒に食べた焼飯だと思う。新聞紙に溜まった薄茶色の表面に天井の赤いライトが反射している。レイ子は目を閉じてブツブツ何か言っている。帰りたいなレイ子、帰りたい、帰りたいなあ。ヨシヤマが倒れていたモコを起こしてワンピースの胸の釦を外しながら、そうなんやこれからの沖縄は最高やからなあ、とレイ子の一人言に相槌を打つ。モコは乳房を掴もうとしたヨシヤマの手を払い、カズオに抱きついて、ねえ写真撮ってよ、と例の甘い声をだす。あたしアンアンに出てるのよ、今度のやつのモデルでさあ、カラーよ、ねえ、リュウ、あなた見たでしょ? (p28)
適当にページを開けたらこの調子であるほどに、終始、カオスだ。レイ子もケイもヨシヤマもリュウも、最初から最後まで出てくるのに最初から最後までとうとう説明はないし、小説自体がそんなスタイルなのに登場人物が全員イかれてるときたらもうお手上げ。
それなのにどうしてなのか、とてつもなく惹かれる。
みんな頽廃しきって、精神がドロドロに崩れて、体もボロボロ。今からだと立て直しもできないんじゃないかっていう腐れ具合なのに、どうして影響を受けている?
ヒントはたぶん、読中の特異さ。シンプルな文体ではないのに、滑らかに進んでいったこと。
入り込むのではなく、なんか一つの離れた目線から眺め下ろしているような、そんな感じで読んでいた。
(そういう描き方を「群像劇」スタイルというらしい
群像劇とは (グンゾウゲキとは) [単語記事] - ニコニコ大百科
後書きでその現象を掘り下げて知れたけど、そこでは本書を「徹底した没主体」の物語として評価している。)
だからつまり、たぶんだけど、この描き方が私にもたらしたものは既視感であったのだ。読んでいながら、どこかにあった似たような過去を、救いようのない出来事とかそういうのを思い出していたのかもしれない。もしくは自分だってそうであったかもしれない、いやいまもそうになる可能性もあるという仮定の世界すらも踏まえて、第三者として見ていたのかも。
本自体は現在進行形で書かれているし、それを普通に文章として楽しみながらも、意識は自分のかつてや自分のもしの世界の劇をそこに映してみていたわけで、読んでいて惹かれたのはヤクに溺れている小説の人物ではなく、ヤクに溺れた(あるいは溺れていたかもしれない)自分だったわけだ。
これはとても不思議な体験である。
そしてこの既視感は内容の酷さにも関わらず、どこか狂おしく愛おしい。
だから思うのは、この瞬間に流れて過去になったいまも、そんな風に見れるようになったらいいね。
『限りなく透明に近いブルー』。なんて美しい響き。羨ましい。
読み終わった本は売っています!