キャパンのネゴト

うまく働けない欠陥労働者が日々考えることと目指すもの

「僕はノートの真ん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。」

 

 

 

この前スマホで書いていて初めて気づいたけど、これ、proじゃないと一番上に広告が出て鬱陶しい感じになるのね。だから3行空けてスタート。

 

 

 

先々週の3連休に念願の三重へ行ってきたのだけど、その旅記事がなかなか進まない。その時々で思ったことが、どうにも色彩に欠くのだ。なにが一番でなにが二番か、どれを最も伝えたかったのか、その順序みたいなのがわからなくなってしまう。

本もそうだ。読んでいる時の感想とか思考とかは読んだ瞬間、最低でも読後にすぐに書かないと忘れてしまう。本に線を引っ張っておけば感覚を再度呼び出せると思ったけど、それもまたそれぞれが平等な扱いになってしまう。

一つ前にも書いたけど、一度失ったものをもう一度取り戻すのは結構難しい。

 

 

 

取り戻せないなら消してしまおう。記事の下書きを削除して廻った。どうも、性格に極端なところがある。ダメなら捨てる。変えるなら全部変える。いいものはとことん愛す。

そんな風に生きてきたから、実はいまおれの手札はあまり多くない。やりたいこととやれることがスッキリしているけれど、これ以上何かを失ったら脈々と紡いできた自分というものが崩壊する。気がする。

 

 

 

村上春樹の小説は決定的におれの人生に影響を与えた。中でもどうしても忘れられない文がある。

 もう一度文章について書く。これが最後だ。
僕にとって文章を書くのはひどく苦痛な作業である。一ヶ月かけて一行も書けないこともあれば、三日三晩書き続けた挙げ句それがみんな見当違いと言ったこともある。
 それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。
十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口も聞けないほど驚いたことがある。少し気を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える…そんな気がした。
 それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。

 僕はノートの真ん中に1本の線を引き、左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっくに見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの…僕はそれらを最後まで書き通すことはできなかった。

 『風の歌を聴け』、村上春樹のデビュー作の中の一節。この前後も本全体も無論他の本も素晴らしいのだけど、ここだけはどうしても忘れることができない。

 

 

 

村上春樹はこう表現しているだけで、結局のところ、生きるということは程度の差こそあれ取りこぼしなくこれに当てはまるだろう。ほぼ全人類、得てはそれ以上に失いながら生きていく。

だから、この「失う」こと自体が問題なのではなく、この本の主人公からすれば、それが「落とし穴」=思ってもみなかったことであることが「不幸」なのであり、逆におれにとってはこの文をスルーできずにまともに取り合い、「意識的に」「失ってきた」ことが「不幸」(かどうかはまだわからないけど)なのだと思う。

 

 

 

そんなことを言いながらも、今週のはじめにまた一つ捨てる決断をして実行した。さらに裸に一歩近づく。快感でもあり不安でもある。

 

 

一度失ったものをもう一度取り戻すのは結構難しい。

失ってもいいけどなにを得たいのか。空っぽな器に今度はなにを入れようか。

青写真を描きなおそうじゃないか。