キャパンのネゴト

うまく働けない欠陥労働者が日々考えることと目指すもの

「らしさ」のワナとandymori

 

 

 

おれは騙されていたのか。いや、いまもなお騙されているのか。

 

 

 

幼い頃から、ほぼ呼吸するのと同時にみんなが口にし、口にした結果としてそういう雰囲気が作られていった。

 

「個性を出そう」「こだわりを持ちなさい」「アイデンティティの確立!」

「あなたらしくてカッコいいわ」

 

 

そう、「自分らしさ」は「カッコいい」はずだった。推奨されるはずだった。モテるはずだった。

そしてまあ確かにイイモノだった。

 

 

でも時々思うのだ。

なんかそればっかりでもなあ、と。本当にそれでいいのか、と。

 

 

 

普段、何気なく聞いているMr.Childrenの『名もなき詩』にもある。

あるがままの心で生きられぬ弱さを

誰かのせいにして過ごしてる

知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいてるなら

僕だってそうなんだ

 

立ち止まって聞き直すと、なんだろうか、この染み込み。冬の乾燥と日々のストレスでカサカサに荒れた唇に塗ったセブンイレブンのウォーターリップの如く。

 

 

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そういうゴチャゴチャしたもの一切を超越して桜井さんはカッコよすぎるのだが・・・

 

 

そんな、「Mr.Childrenが好きなおれ」みたいなのも一種の「自分らしさの檻」であり、というか、なんならアーティストの好みなんかは誰でも簡単に築ける「自分らしさ」であろう。根無し草のような中学生でも好きな歌手はいるし、「趣味は音楽を聴くこと」と宣うオツムゆるふわ系でもよく聴くジャンルは、ある。

 

 

 

たまにそんなふうに「らしさ」への疑問を持ってしまったときは、おれはある大学生の夜を思い出す。それは塾講師のバイト終わり、車での帰宅中にラジオからandymoriの『1984が流れてきた時のこと。(塾講師はいい仕事である。ごく少数の人に対して成長のアプローチができるから試行錯誤がしやすいし、またその結果が現れやすい。)

 

当時のおれは、ドイツでの長期留学の反動で「自分」というものを余りにも強く意識し過ぎていた。そうでもしなければ、とてもユーロ圏の優秀な学生の中では生きていけなかったからだ。

音楽もいつも決まったもの。桑田佳祐斉藤和義Mr.Childrenザ・ビートルズandymoriの『1984』のような曲とは無縁な世界にいたし別にそれでよかった。

 

 

でもそれは間違っていた。

 

 

よかったのだ、音楽が。

ラジオから流れる新鮮なリズムは檻を壊した。

「らしさ」の外には、当たり前だけど広い世界が広がっていて、そこにはまだまだ美しくて泥臭くて心に響くものが存在したのだ。

 

 

 

だから思うのは、「自分らしさ」なんて、作らなくて済むならそんなものはいらない。

もし勧められたらそれはワナである。騙されている。

なぜならそいつは、狭量でニセな快適さへ自分を追い込むことでもあるから。

『「自分が好きなもの」が好きである』という、妙なこだわりはバカらしい。

 

 

もしそれでもどうしても作ってしまうなら(おれがそうだけど)、着脱可能にしよう。 

 

 

 

 

 

1年半前に会社の先輩から中くらいの紙袋一杯の洋楽のCDを借りて、全てiTunesに落として聞いたのだけど、あれはよかった。

いっしょくたにたくさんの、自分にとって新しい音楽が聞けて、好きなものもそうでもないものがはっきり分かれて、それで好きなものの範囲がグッと広がる感じ。

いまそんな感覚を求めていて、ビジネス書よりは小説を読んだり、noteでいろんな人のエッセイを見たり、音楽もたくさん知りたい。CDかデータを貸してください。

要はそういうことが言いたくて書いた文。

あ、andymoriは結構いいと思う。 

 

 

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車内のラジオで流れてきた時は本当に衝撃的で、この間の運転の記憶は全くない

 

 

 

 

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絶望的な陽気さでまた悲しくて楽しい

 

 

 

 

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大きな声で歌いたい。少なくともそれまでのおれの世界にはこれは存在しなかった