キャパンのネゴト

うまく働けない欠陥労働者が日々考えることと目指すもの

思ったよりも、自由ではなかった

 

 

帰省した。

 

自分の現状を伝えた。

 

家族の現状を聞いた。

家族の過去を聞いた。

 

 

 

 

人の気持ちは、足が止まってしまうことが怖くて考えないようにしてた。

自分に都合のいいように解釈して、理屈でもって持論を形成していた。

 

でも、想像以上の想いの強さが今の自分を作っていた。

 

 

 

自分が生きれればそれでいいだろうと思っていた。

恐れていたら何もできないし、

好きなことができるならリスクは甘んじて受け入れよう、と。

 

でも、家族がいれば必ず迷惑をかけてしまう。

責任もある。

 

 

 

 

 

思っていたよりも、自由ではなかった。

 

「人は一人で生きている訳ではない」なんて

「はいはい、わかってますよ」と思っていたけど、

どうやら全然わかっていなかったようだ。

 

 

「一人で生きている訳ではない」は

「助けられているんだよ」だけではなくて

「その分、担っている」という意味も含むのだ。

 

 

 

 

 

ホリエモンは「バカになれ」というけれど、

それらを無視して突き進むことはできない。

 

全てをほっぽり出して逃げる訳にもいかない。

 

かといって、求められるがままに生きていくなんてことはしない。

恩を返すために生きている訳でもなければ

恩を送るために生きている訳でもなければ

ましてや苦しむために生きている訳ではない。

 

 

 

 

選択のし直しだ。

 

 

 

 

 

 

考えた。

確かに、あまりにも自分勝手であった。

しかし、方向性は間違えていないはずだ。

 

つまり、やり方、言い方、順序、配慮、タイミング。

 

 

 

 

考えた。

稼げばいい。

金だ。

 

責任は金で払える。

安全は金で手に入る。

時間は金で買える。

 

自由は金と代替可能だ。

 

 

 

 

いま、全てを投げ出す自由もあるけれど、

それはあらゆる関係も投げ出している時点で自由の範囲が狭まっている。

 

一方で、問題を解決した先に手に入れる自由は広い自由である。

 

 

 

 

稼ごうと思う。

そのためには稼ぐ手段を身につける。

それができる会社に入る。また能力を磨く。

そもそもそういう会社に入る力をつける。

今はここだ。

 

 

約1年前に始めたこのブログに一貫していたのは、「しにたさ」。

要は「生きる気のなさ」。

 

そんなだから、力も経験も能力もなにも残っていない。くそ。

これでは広い自由は手に入らない。

責任を果たせる強い自由が手に入らない。

 

 

 

 

もう25歳になってしまった。

今日からの目標はそれだ。

12月までは、どうせしにそうな毎日をもっと死にかけながら生きる。

そして新たなステップを踏む。

 

その先の理想を強く強く求めながら。