自己主張と多少の迎合

安寧を貪るジジイ的社会人2年目の、前を向くための日報

またイヤな夢の話と、加えてイヤな現実の話

またイヤーな感じの夢をみた。

 

実家にいる。戦争が勃発したようだ。

天気予報を見ると、晴れとか曇りとかのアイコンのマーク仕様が一日一日で違っている。GoogleのマークだったりYahoo!のマークだったり。情報統制がされている証拠。なのか?

 

そして避難警報。

実家の近くには、片側2車線の比較的広い国道が通っている。周辺の住民はみな、交通規制で車が1台も通らないその道路に集められた。たまに懐かしい顔を見るが、その様は恐怖に怯え、とても気軽に声をかけられる状態にはない。きれいに整列しろと言われて、10列くらいでまとまる。家族が一緒にいるので精一杯の混雑と、ザワザワとした雑音の中、落ち着かない時間が続く。このあと何が起こるのか、誰もわからないが誰もがイヤな予感を感じていた。 

 

国道が東西に伸びていて南側に標高500メートルくらいの山、北側にはしばらく平野が続く土地。ふと、その南側の山をぎりぎりかすめる高さで巨大な戦闘機の姿が見えた。いつ何が来るかと戦々恐々としていたはずなのに、それは本当に、ふと、現れた。それが他の機種と比べて大きいのか小さいのかもわからない。ただ、あまりにも近すぎて、慄いて、それだけだった。

 

突然の戦闘機の登場に身動きが取れないでいるうちに、事情をしっかりと認識しないうちに、爆弾が落とされた。どうやら少し離れたところに落ちそうだった。やはり恐怖で動けないのか、それとも近くに落ちなそうで安心したのか、何も指示がないからそうしたのか、周りのひとは全く動く気配を見せない。

私は、これはマズイと思って全力で走り出した。一人で。すると、少し離れたところに落ちた爆弾が爆発した衝撃で飛散した欠片が、四方八方に飛んで、周りのただ突っ立っていた人達を襲い始めた。断末魔の叫び声、戦闘機は去っていく。また別の戦闘機に備えて、整列をつくる。

なぜ、わざわざ見通しの良い広い道路に、住民を一斉に集めたのだろう。これでは、標的としてと言っているようなものである。一つはその愚策、もしくは陰謀に対する怒り。

傷付くひとを見て、また恐怖に怯える自分を省みて、なぜ、こんなにビビらなくてはいけないのか。この仕打ちに値する悪事を行ったのか。なぜ、こんな一方的でどうしようもない攻撃を受けなければいけないのか、という戦争という名の暴力に対する怒り。

そして、しかしそれでも、ミサイルのようなもので、一発で、何事もなかったかのように木っ端微塵に吹き飛ばしてくれるなら、それならそれでもいいかもしれない。そんな開き直り。

 

複雑で神妙な思いを抱えて、目が覚めた。

 

 

朝、NHKBSの8時から始まるワールドニュースという視聴予約が目覚ましになっている。早めに目が覚めて微睡んでいる中、1つ目は、スペインのニュースだった。バルセロナのランブラス通りで罪のない人たちが理不尽に殺されていた。

韓国のニュースでは、北朝鮮のミサイルの出所がウクライナと判明していた。

 

自分の手には余る、怒りの行き先もわからないような巨大な力の中で、理不尽に死に追いやられる。それが世界中で起きていること。自分にも起きる可能性があること。

とてもリアルな目覚め。

ほんと、オチもなにもない、ただの夢のはなし

読書をしていて眠くなったら昼寝するという行為に、至福を感じる一方で、読書後の昼寝は本の影響が色濃く出るから、夜にいつも通り寝てみる夢とは趣の違った夢を往々にしてよくみる。気持ちよく寝ておいて、終盤は早く起きたいと思うような、そんな居心地の悪い夢の録。ほんと、オチもなにもない夢のはなし。

 

 

時は高校生。場所は高校の駐輪場。どこにでもある駐輪場とどこにでもいる高校生。

土曜日の昼間(中高では土曜日にも授業があった)、学校から帰宅しようと駐輪場に向かって歩いて行たら、年下そうな、小さめの女の子がなにかを私の自転車のサドルの上に置いて、去ったのが見えた。なにをしていたのか、訝しみながらも歩いて駐輪場に着くと、そこにはしばらく前の状態の、私の携帯電話が置いてあった。(この携帯電話の仕様は、現在、私が使っているものだった)「しばらく前の状態」とは、手に持っている「私の」携帯電話よりも若干キレイで、シールもそれほど貼っていない状態であった。(私の格安携帯電話はなんか寂しく、シールをもらうとベタベタと貼ってしまっている)

 

これはどういうことかと気になり、それを置いていったであろう、女の子を探しに自転車に乗った。(自分の携帯が実は2つ存在していたこと自体には、大して驚くことはなかった。以前から、自分が送った覚えのないメールがあったり、した覚えのないやりとりがあって、どこかでもう1台の携帯電話があって、それで誰かが適当な具合に操作していると考えて、それがしっくりきていたからだ)ちょうど全校の下校時、たくさんの生徒が駅に向かって歩いていた。なぜかわらわらとひとが増えてきて、これは見つかりそうにないな、と半ば諦めつつも、しばらく探した。

 

するとふと、ネコが私のところにやってきて、それを見て、ああやっと見付けたよ。とホッとした。家にそのネコとそのネコが持っている私のもう1台の携帯電話を連れて帰ることが出来た。(この時には、私が探していたのはネコであり、また持っていたはずのもう1台の携帯電話もそのネコの手にあったが、そのことも特に疑問には思わなかった)

 

帰宅後に家にいた3人の家族に事情を説明すると(4人家族だ)、ネコは突然、おじさんに変わって、そのおじさんは、携帯電話は始めから2台あったこと、そのうちの1つはずっと別の世界で密かに使われていたことを教えてくれた。そのおじさんは、おじさんではあるけれど、妙な安心感があって決して不快さを与えるタイプのおじさんではなく、話しも想像通りで納得して聞いていた。きっと、私の関与し得ないところで、私に関する物事は進んでいったのだろう。それは携帯電話に限った話しではないはずだった。

 

携帯電話の秘密を教えてくれたこと、携帯電話を持ってきてくれたことに御礼を言うと、そのおじさんは外を見てごらんという。見てというからそうすると、イヌがいたけど、それはただテレビのイヌの映像がガラスに反射していただけで、本当は、ネコが2匹、じっとこちらを見て座っていた。ネコがいる、というと、そのおじさんはネコの姿になって、でも顔だけおじさんのままで、窓を開けて庭へ出て、そのネコたちのところへ行った。

 

私の家族3人は、ネコがおじさんになったところから、終始、ポカンとしていて、おじさんが出ていくと堰を切ったように、なんだあれは、と捲し立てた。私は、自分がおかしくなったと思われたくなくて、必死に、一から、一緒に見ていたことを説明した。ちゃんとみんなで同じ光景を見ていたこと、それが不自然な行程をとっていなかったこと。そしたらお父さんは、そもそもネコ(おじさん)が家に入ってきたときにそいつの後ろを歩かなかったから、怪しさを見抜けなかったんだと言っていた。その主張はよくわからなかったけど、とにかくおかしくなったのが自分だけではないと知って、ひとまず安心した。みんながおかしいなら、それはそれで安心できるものだ。

 

そんな会話をしている最中も、顔がおじさんで体がネコなネコは、ガラス窓の外をウロウロしながら、他の二匹の猫とともにこっちを見ていた。それが何分も何十分も続くと、次第に気味が悪くなっていった。顔がおじさんのネコにひたすらに見つめられると、家族での会話が空虚に感じてきて、早く帰ってくれないかな、携帯電話はもう受け取ったのに、これ以上、一体何の用があるのだろうと、そこで初めて恐怖を感じた。それで、それでもどいてくれなくて、ずっとこっちを見てくるから、そのネコから逃れるように、目を覚ました。

 

目を覚ますと、そこはいつもの私の家なんだけど、なんか誰かに見られているような、いまこの瞬間まで誰かがそこにいたような、気色の悪い感じが残った。

逃げ切れなかった。

株の売買成果 6/30-7/31

株トレードについて、先々月の6月30日から、売却時での売却額と購入額の差額を「もうけ」として記録するようにした。お金を掛けておきながら面倒になってしまうこともあるから、目に見えるようにして意欲を高める目的だ。

 

そんな記録後初の1ヶ月のまとめ成績は

+62,049円。 

配当金が4,000円ほど入っているが、単月でこれだけもうけられたのは1年間運用してきて初だろうし、すごくうれしかった。

運用額が大きくなったこと、デイトレードができたこと、決算発表の波に乗れたことが大きな勝因だ。

 

実感をわかすために今月は、もうけた分は全て使った。Amazonで好きなものを買い、旅行に行き、焼き肉をおごった。

 

 

ちなみに今月は運用金全てを大型株に投資し、そのあと続落、10万円の含み損が出ている。

そんなにうまくいくものではない。

まあ、売るまではどうなるのかはわからない。頼みます。

いつ死んだって、構わないことになる

「愛」は生きるための必要条件である。

だから、「愛」はどうだこうだと、その説明に高尚な装飾はいらない。

 

「愛」は生きるための必要条件でのみある。

だから、「愛」が地球を現状維持はさせても、救うことはない。

 

裏を返せば、「愛」がなければひとは死ぬ。

ただちに死ぬわけではないが。それでもじっくり、確実に死に近づけていく。

 

 

 

 

「愛」がないとは、すなわち孤独である。

孤独を感じるとき、ひとはほぼ死んでいる。

 

なぜなら、その時間は世界で誰もその人間のことを気にしていないからだ。

誰にも気にされないひとは、その時間に生きていようと生きていまいと、世の中の流れに一切の関係を持たない。

例えば、小学校の同級生のイマは気にするか。例えば、もっと身近なひとであっても、そのひとのイマを気にするか。イマ生きているのか死んでいるのか、知っているのか。知らないなら、生きている確証が持てないなら、ましてや全世界がその態度なら、それはほぼ死んでいるのではないのか。

結局、そのひとは世界からしたら、いつ死んだって、構わないことになる。

 

 

 

いつ死んだって誰も(もしかしたら自分自身すらも)構わない状況なんて、ほぼ死んでいる状態なんて、堪え難いことには想像がつく。

 

だから「愛」という、そんな病状に効く唯一の薬の入手が必定になる。

 

その薬は、孤独という奥の見えない深い深い井戸の暗闇に忘れ去られた、胸の張り裂きに苦しむひとが意識的に求めるだけではなく、そんな井戸に入らないように日々必死に努めるひとさえも、無意識のうちに求めて、対象が重なればある時は長蛇の列を作って辛抱強く待ち、ある時は暴力に訴えて力づくで手に入れる。

 

 

厄介なのは、この薬の形態は決まっていないことだ。

大量のネコを飼うおばあちゃんも、ゴミを捨てれずに溜め込むおじいちゃんも、不倫をする芸能人も、電車で暴れる中高年も、ちょっと変わった宗教に心酔する主婦も、駅でたむろする少年も、もちろん恋をするひともメンヘラもビッチもマザコンも。

たったひとりになって、自分が肉片に過ぎない、気を抜けば土に還るだけの無意味な存在であると認めたくなくて、それを救ってくれるものに愛を見出してすがる。

 

 

そうであるならば、その行為がいくら醜かろうとも、誰が何をしようとも、一体、どうして責められようか。

電車で騒がれたら困るし、浮気をされたら悔しいし、メンヘラはウザいし、無差別殺人で身近なひとが殺されたらきっと復讐するだろうけど、彼らはただ死にたくなくてやっているだけなら、それは私たちが日々行っていることと何が違うのだろう。

 

 

 

 

わざわざ結婚なんていう不自然な制度を作ったのは、男女一対で過ごすことがより無害な愛の形であるから、というだけだ。

 

それでもなお、ほぼ死んでいるひとは一体どれほどいるのだろう。

誰にも気にされることなくひっそりと、しかし確実に手に取るようにはっきりと孤独を持つひとはどれほどいるのだろう。

 

 

 

いま、死んだって構わないひとはどれほどいるのだろうか。

 

 

今週のお題「ちょっとコワい話」

 

じっと、自分の中から何かが湧き出るのを、待つ

村上春樹の新作である『騎士団長殺し』がおもしろい。

 

これまでのどちらかというとファンタジックな小説に比べて、地に足付いた、リアリスティックな下地がある。主人公もその周りにいる人物も、わりに現実的な思考をする傾向が強く、たしかに相変わらずどうしようもない謎や解釈が多岐に分かれそうなメタファーはあるものの、ほっぽり出される感覚が比較的少なくなっている。そしてそれでいて、やはり健在の独特な表現方法はどこか惹かれるし、またしても主人公の像や暮らしは好みだ。珍しく冷静に読めるのは、慣れたからなのか展開が丁寧だからなのか。とにかく小説として優秀。

 

 

最近は早く家に帰ってとっとと料理、食事、片付け、その他ジムに行くならそれを洗濯するならそれをやり終えて、いかに読書の時間を長く取るか、怠惰とせめぎ合いをしている。

 

騎士団長殺し』の他にも、図書館で借りてきた『覇王の番人』、ウイスキーの本、目に付いた誰かのエッセイ、父親からもらった『毛利元就』、借りものの『村上海賊の娘』が積読されている。

 

そんなわけでひととも会わず、ブログもLINEも移動時間のみ。いまはただ、静かで読書に適した場所と時と、それに飽いた時の話し相手だけを求める。

 

 

 

そんな、気分。

 

こんなときは、とにかくインプット。

下手なことは、しない。

じっと、自分の中から何かが湧き出るのを、待つ。

それは作文意欲かも知れないし、旅行かも、なにか行動を起こす力かもしれない。

 

人生にはいろんな気分の時があってその時々に沿った生活ができたらいい。

いまは、平日の8時間以上は仕事、土日は休んでもいいよ。という制限のもとでの仮初の自由でしかない。

 

 

きょうは、近所の江戸川の花火大会で花火を見るよりも群馬県桐生市の八木節祭りでを踊りたい気分だった。

 


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三宅島の自然に触れたら風邪が治る(ほんと)

 三宅島へ行ってきた。

 

最大限の集中力をもって金曜日に定時退社して一時帰宅し、シャワーを浴びて今にも海に飛び込めそうな格好になって、一週間の憂さ晴らしをするかのように土曜日の午前を犠牲にして呑みに耽った酔っ払いたちが帰る電車と逆方向に乗り、閑散としたゆりかもめに乗って竹芝駅で降りれば、老若男女の眠気とワクワクが入り交じった竹芝桟橋に着く。

 

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おでこには冷えピタという盾を、手には角の小瓶という矛を携えて乗船。

甲板に出てレインボーブリッジを見送ると、レジャーシートを敷いて船上の金晩。

眠くなったら和室で雑魚寝。

 

www.tokaikisen.co.jp

三宅島は伊豆諸島の遠い方だから、橘丸。もう片方のさるびあ号よりも清潔で寝心地もよかった。

 

 

三宅島には朝の5時に到着。早すぎる。

宿のお迎えを利用して早速チェックイン。

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部屋利用の休憩は別途料金がかかるから、浜辺で寝ようとするが、台風5号の力で雨に打たれ風に吹かれ波も荒れる。

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仮眠を取れば雨の冷たさに起こされついに断念。雨に歌いながら歩いていると、宿『広丸』の車が。台風の中に出ていった彼らは無事だろうかと心配して迎えに来てくれたのだ。

 結局、部屋で泥のように熟睡。

 

 

起きてみたら、ああ、あの荒れた天気は昨日のことかと錯覚を起こすほどの、ウソのようなカンカン晴れ。

 しかも宿のおかあが格安で『広丸』車を貸してくれる。至れり尽くせり。

 

島で遊ぶとなったら、ドライブして歩いて、山に登って、池でボーとして、浜で寝て、海で泳ぐしかない。何をしても自然が付き纏う贅沢な時間だ。

 

2000年の噴火と島民避難が記憶に新しい三宅島だが、この火山は結構頻繁に噴火しているようで、ジオパーク指定の、火山の足跡を学べる箇所が多くあった。

噴火口跡で池ができて、溶岩の流れ出たあとで岩や山肌が黒くなり、浜辺は黒い石と砂で覆われていた。

新島には白浜、神津島には砂漠があったことを考えれば、この黒さは三宅島の押しも押されぬ特徴と言える。

 

 

夜になれば、たまたま「島が一年で一番盛り上がる」お祭りがあった。本土では雨の中、なんか行かないと損した気になってとりあえず出掛けてきた人たちでごった返す隅田川の花火があった時に、三宅島では車で会場に乗り入れるというおよそタブーな行為を受容できる600発の小さな花火大会が行われていたのだ。

 

花火とは花火そのものが良いのではなくて、「夏の夜の心地よい気候の中、外でのんびりできる口実」として非常に優れているのではないか。そこにあるのは花火でも星でもイルミネーションでもビールでも、なんでもよくて、ただ誰かと心地よい夜のひとときを過ごせることが重要なんじゃないかと、示唆に富んだこじんまりとして静かな花火大会であった。

 

その日も呑んだくれて、次の日は畳でゴロゴロしてはスイカだのところてんだのを頂きまた畳でゴロゴロするというさながらおばあちゃんちを楽しんで、帰った。

 

 

いつのタイミングだろう。

気が付いたら咳も熱もなくなり、持っていった冷えピタがゴミになった。

 

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冗長だしかつ不愉快な文章

トイレのタンクの上にクモがいた。

トイレのタンクの上のクモの話し。

 

 

糸を張って我が物顔で空間を占拠しにかかるから、クモは嫌いだ。ここはわたしの家だから、勝手に縄張りを作らないでほしい。

 

 

ササササッと動く。

 

 

暖かくなってからはクモを見る機会が増えた。

窓やドアの開閉時や洗濯物の取り込みなど、気を付けていてもどこからか入ってくる。

ただいま、と玄関のドアを開けて、虫が入ってこないかと気を付けながらドアを閉じて、靴を脱いでその靴を整えると、いる。

 

 

そんな素早さだから経路はわからない。けどどうにかして入ったのだろう、トイレのタンクの上にクモがいた。

 

 

 

すぐにトイレットペーパーで取った。

ここで配慮すべきは、ちゃんと取れているか、確認はしないということだ。確認したら最後、少しあけたその隙間からカサカサっと這い出てくる。

ティッシュを持っているその手の上に遊びに来たら最悪だ。驚いてティッシュを投げてしまって、結果、雲隠れされる。クモだけに。

 

 

だからそのまま捨てるのが吉なのだが、問題はどこに捨てるか。

明るいうちなら外にも捨てられよう。しばらくしてからティッシュを回収したらいい。

だけど夜はダメだ。ポイ捨てになってしまうし、なによりそのクモ入りティッシュは捨てられても、他のクモが家に入ってくる可能性が捨てきれない。

 

 

手に持ったその紙を握り潰せばそれで話しは終わる。けれど自ら積極的に殺すことには臆すから、トイレに流す。

ここにいたあなたが悪いんだ。ごめんねさようなら。

 

 

ジャーーーー…

溜まっていた水が流れて、新しい水で満たされる。

この前、TOTOのお姉さんが言ってた。和式トイレはこの一回のために、13リットルの水を流すらしい。今は少なくなって4リットルくらいだが、それでも4リットルだ。だいたい1リットルの水を飲むとオシッコをしたくなるから、1リットルのために4リットルの水を使っていることになる。割に合わなすぎる、トイレ事情。

ましてやクモ一匹のためにだなんて、水にもごめんなさい。

 

 

悼む心も持ち合わせつつ、流れていくトイレットペーパーを見送る。

すると、グルグルと回るさなかにトイレットペーパーがほどけてあき、クモが開放される。流されていることを知ったクモは、このままいくかと必死に抗い、ドボドボっと水が吸い込まれるまでの数秒間、耐え切った。

 

 

残った水で泳ぐクモ。とにかく水際から這い出ようとするがツルッと滑って再び水に戻る。目が離せなくなってしまった。もう一度流しても彼はまた戻ってくるだろう。かと言って手を突っ込んで外に投げるわけにもいかない。一度取った策をそう簡単には替えられない。

 

 

5分ほどその生の論理に適った、しかし不毛な努力を見届けてから、トイレを出た。

 

 

不思議と、トイレを出るとともに驚き、考え、迷い、決断し、目を奪われたその一連の体験はすっかり忘れ去られ、日常が戻った。尿意すら。トイレに戻ったのはその2時間も後だった。

 

 

ドアを開けると、トイレのタンクの上に、クモがいた。1時間前と全く同じ位置で、同じ表情を浮かべるクモに、全てを思い出す。

 

トイレットペーパーを手に取った。一度捕まり生還したそのクモは、それにも関わらず抵抗する素振りは見せずに再び、おとなしく、捕まる。

もう一枚のトイレットペーパーを取る。さらにもう一枚取って、三重に包む。

そうしてから、水に浮かべ、流す。

今度は、流れていく紙の中から出てくることはなかった。

 

クモは、いなくなった。

 

 

ひとは寝ている間にクモを食べているという話しを聞いたことがある。

流されても胃に入ってもそれでも抵抗を続けるクモを想像する。

 

 

視界の端で、ササササッと動くものがある。

どうして排除してくれようか。