キャパンのネゴト

うまく働けない欠陥労働者が日々考えることと目指すもの

「いいひと」がいなくなれば世の中は平和になる

中学生のときに、「いいひと」になるのをやめようと思った。

公立の中学校に行かずに私立に行って環境がリセットされたこともあるし、

そこに素の自分を出さないと生き残れない個性が溢れていたこともある。

はじめの理由はそんなだった。

 

それでも「いいひと」をやめるのはそんなに簡単ではない。

誘われたら行くし、ヤなこと言われても笑うし、合わせて悪口いったりする。

「いいひと」をやめられないから、主だってひとをいじめることはしないけど、

素も出せないから、片棒を担ぐような中途半端な立ち位置にいることになる。

 

私の中から「いいひと」が消え始めたのは、高校生のとき。

中高一貫校のダレた空気の中、頭一つ飛び出る人間と、そのまま埋没してしまう人間と、徐々に分かれてきた。サッカー部に所属していても試合に出るほどの実力はなく、勉強しても10に入る実力はない。モテもしないし、特技もない。

残されたのは思考と行動のみだった。

 

 

「いいひと」とは「『都合の』いいひと」である。

「『都合の』いいひと」とは「誰かの期待に応えようとするひと」である。

「誰か」が多いほどに、「期待」が大きいほどに、「いいひと」レベルは上がる。

ならばまずは、「誰かの期待」を裏切ればいい。そう考えた。

 

部活を辞めた。サッカー部を辞めておきながら女子サッカー部のコーチをやった。優等生レッテルを貼られる生徒会をやった。

考えたことをそのまま行動に移してみたら、訝しがっていた周りの目が納得に変わって、押しつけの期待が引いて待つ期待に変わった。

 

大学生になっても社会人になっても自分の都合で行動した。やりたければやるし、やりたくなければやらない。おかしいことはおかしいと言うし、こわいものにはこわがる。周りのどんな期待にも応えなくなった。私は旅好きな人間でも破天荒な人間でもかといって寡黙な人間でも素直な人間でもない。ただいろんな形になる心があるだけ。

 

どこに行っても、しばらくすると誰も私に期待をしなくなった。好き勝手に振る舞えるようになった。「いいひと」が完全にいなくなった。

 

 

 

続く

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