タイ、日記、ほぼほぼ、転職について
一週間、タイに行ってきた。
タイは二回目であったから観光などは一切せず、
国内線を乗り継ぎ、更にカーブ多数の悪路を3時間バスに揺られた先の小さな村に行った。
時間はゆったりと流れ、快適な沈没ライフを送った。
故に、退屈であった。
退屈と一言でいっても良い退屈と悪い退屈がある。
悪い退屈とは、求められていない退屈である。
なのでこれは悪くはない退屈であった。
まあそうはいっても退屈は退屈だ。
Kindleで本を読むにも原付でフラフラするにもマッサージにも散歩にも思索にも飽きたから10バーツでノートを買ってきた。
それから、日記を書いている。
いま日記を書いている。
ということを言いたいが為に上の文を書いた。
長い前置き。話をする時も前置きが長くなりがちだ。
だいたい全てのことに理由があるから、そこから説明したくなってしまう。
だいたい、と書いて思い出したのが、ほぼほぼという言葉だが、これを滅したいと、その言葉が使われる度に思っている。
日本語の崩壊とか使用方法云々といった理由ではなく、この言葉の背景に、毎度腹が立つ。
なぜなら、ほぼほぼという言葉が使われるときは、何かを曖昧にされたときだからだ。
何か、とはほぼほぼの対象外のことで、まるで93%くらいであるかのように錯覚させることで、その対象外のことへの言及を避けさせる役割を担っているように感じられてならない。
ほぼでいいのにそれに留められないのは、何か後ろめたいものを感じる。
日記には主にその日に考えたこと、その考えになったきっかけを記している。
字に強い癖があって、その癖は達筆と言われるキレイなものでもないのにも関わらず、それを愛でてしまっているところがあるせいで直らないので、前に書いたものの読解は難しく蓄積の意味はあまり成してはいない。
だけど考えを書いて目に見える形にするのは意外と効果がある。
それは、考えていた1を紙に起こすとスルスルと思考が進み、1が2に2が3に変わっていくということだ。
結果、こうやって、遠ざかっていたブログにノコノコと戻ってきて駄文を書き連ねることになる。
日記に疲れたのだ。
タイの50円程度のノートの描き心地はたかが知れていて、結構手が疲れる。
それに比べてMacの打ち心地とはどれほど良いか。
恥ずかしい日々の出来事なんて書くつもりにはなれないけど、
1が5くらいになった結果をパパパと打ち込むのはいいかもしれない。
社会人も3年目の中盤に入って転職というワードがホットな今日この頃だけど、
転職する、とは自分がやりたいこと、その理由、その方法、その思いの強さ等の自分と向きあいえぐる行為であって、
そのまま働く、とはそれらを考えずにいられる行為である。
とは本日思ったこと。
日記は続く。