『ファイトクラブ』をオススメする理由
『ファイトクラブ』を改めて観て、この映画を好きである理由を考えた。
たぶん
人間性−現実的な人間くささがみれるか
メッセージ性−作り手の意思が感じられるか
展開性−物語として楽しめるか
これを満たしている。
名言を並べて上の条件を示し、かつオススメする理由にしようかと思ったけれど、
文面として名言を出してみたら陳腐な感じになったので、やめる。
ブラッド・ピットが言うからカッコいいのだ。
だから、これよ!という場面を、思い出す順番で理由としてこじつけていく。
*ネタバレしか含まない
- 理由1:飛行機が衝突しても構わないという自暴自棄に共感する
不眠症を抱えながらも、北欧家具に囲まれて経済的に不自由のない生活を送るジャック。
でもリコール査定のためにアメリカ中あちこちへ飛行機で出張するときには、
「このまま飛行機が衝突しても構わない」と思っている。
もはや、この何ともない場面をもう一度観るがために、今回鑑賞したようなもん。
特に不自由もなく満たされているはずの生活だけど、どこかモヤモヤする。
毎日ちょっとした違和感を感じながらふつふつと溜まるフラストレーション。
表の主題である「物質主義への抵抗」を一言で表したような場面であった。
なによりこのモヤモヤが、全世界というか人間に共通した感情なのだと知って、少しホッとする。
- 理由2:殴り合うという突拍子もない解決策が動物的で心抉られる
ジャックとタイラーが始めたファイトクラブは、参加者が1対1で殴り合うというシンプルな会。
この会によって多くの男たちが上に書いたモヤモヤを解消する。ただし、その場限りで。
殴り合う場面は狂気だ。
正義も勝ち負けもない、ただの発散。痛んで血を流して痛めつけて血を流させて、笑って終わる。
これを見て、いいなとおもう。
金曜日の終電近い電車では酔っぱらったおっさんがケンカをする。
電車の中で顔をつかみ合うこともあれば、駅に降りてから取っ組み合う時もある。
きっと殴り合いたいのだろう。理由はなんでもいいのだ、ただ殴り合うことで救われたいのだろう。
もし売られたケンカなら、正々堂々とこのおっさんを殴れるのかな。なんておもうときもある。
自分もまた、この無意味な殴り合いを求めていることを知って、落ち着かなくなる。
- 理由3:本当のかっこよさとはなにかを考えるきっかけになる
タイラーは、「ワークアウトは自慰行為だ」という。その通りだ。
ジムに通ってカラダを鍛えるなんて、ただの自己満足に過ぎず、しかもそれを他人の面前でやるわけだから、「オープンな自慰行為」である。
でも、それを言ってしまえば、ほぼ全てのことが自慰行為になってしまう。ほぼ全てのことはその人自身が気持ちよくなるために行われているのだから。
以前、ライブに行った時には、ギターリストの演奏はオナニーにしか見えなかったし、
このブログだってTwitterだってインスタグラムだって盛大な自慰行為だ。
タイラーは、「男は自己破壊を」という。
これがわからない。
自慰行為自体はもうしょうがないとして、でも反対に位置するものはきっとカッコいいはずだ。
本当のかっこよさとは、そこにあるとおもうのだが、わからない。
- 終わりが見えにくい
映画に限らず、人生を含めた物語が最もおもしろくなくなる瞬間は、先が読めてしまったときだ。
純愛ものやディズニー系、テレビで宣伝される映画が苦手なのは、わかりきっている終焉をただ確認する作業になってしまうからだ。
ナゾを感じさせる伏線を敷いて混乱させ、ちゃんと回収して頭を使わせる。
ミステリーやホラーではありがちなこの流れだけど、ドラマっぽいのではあまり観れない。
(サスペンスの、ナゾはナゾとして放っておいてもいいみたいなスタンスやめてほしい)
- 生き方がいい
Mr.Children(好き)の『FIGHT CLUB』という曲の元にもなったこの映画。
歌詞にも、イカれたタイラーに憧れる心情が唄われている。
劇中では数々の名言があるのだけど、一貫して「いまのままでいいのか?」と問うてくる。
死の床に入って、「この人生に満足か?後悔してないか?まだやりたいことあったなあ」なんてことが考えられるとも限らず、
今この瞬間になにかの発作で死ぬかも、ミサイルが飛んできて死ぬかもわからない現実がある中で、
「それでいいのか!!」と。
「それでいいの〜」だったら「死ねよ!!」と。
人生は一度きり。
『ファイトクラブ』には生きる力の低い時も高い時も、両方描かれている。
3つの条件もきちんと満たしている。
名作でしょう。