キャパンのネゴト

うまく働けない欠陥労働者が日々考えることと目指すもの

なにを食べてもおいしくない

遠い将来 、消し忘れたこのブログを誰かが見るとして、 その誰かが、例えば下手したら自分の子どもが「こいつは死にたい辞めたいと言い続けて 更新が途絶えて、ついに オワッタか」と、そう呆れられないように書いておく。

 

 

いまはとても 気分がいい。良いこと嫌なことが活発に起こり、それに対して正常に反応して 機嫌が上がり下がりを繰り返す。毎日が起伏に富んで ちゃんと 生きていると実感できる。 ご飯はなにを食べてもおいしくない。それ以上に楽しいことがあるから。こういう状態は 実に数年ぶりだと 思う。

 

 

それでもきっとまた、性懲りもなく無の状態に戻るだろう。投げやりに生きる時期もあるだろう。

 

そんなときの為に、調子がいい時があることを、センチメンタルに言えば、生きててよかったと 思える時間を、覚えておきたい。それがいい。

 

 

 

 

そういう風に考えると、楽しい記憶が希望に化けていることがわかる。大抵、キツい時に助けてくれるのは自分の思い出だ。だからプラスもマイナスも、とにかく度の強い思い出はたくさん作っておいたほうがいい。そうすれば、色々な状況に対して、慰めとか笑いとか懐かしさで力をくれる。規律や常識、葛藤や迷いを超えた思い出のことだ。

 

 

 

とすると、希望は人から与えられるものではない。過去の自分しか未来の自分への希望は作れない。

 

調子がいい時ほど、思い出の貯め時である。

 

 

いつか死にたくなる自分への希望の光を、せっせと集めるのだ。

そして最後に本当に死ぬときに笑うのだ。